昭和五十四年八月十九日 朝の御理解
御神訓
「縁談に相性を改め見合いより信の心を見合よ」
大変まあ難しい事です、心が露出しておれば、すぐわかるんですけれども 心がめいめいの、それこそ、あるのは在るのだけれども
何処にあるやらそれが分からん、と 云のが心なのですから それを見合わせろ、と云う事は大変にまあ難しい事です。
それでまあ、大体心というのが、顔形に現われたり、又その辺の
周辺に起きておる事情とか問題とか、といったようなものをも見てみるわけですね。
一般では勿論本人同志が気に入って、そして、この辺では聞きつくろい、と申します、ね、そして家を見てきた、もう本当に本人同志も見合いして気持ちも良かった。聞きつくろいもよかった、そして最後には家を見にいったげなら 家があんまり小さかったげなら ああこれはもう、つりあわん、と云うて止めたという人が御座いましたがね、そして次の縁談を、それこそ あちらの家も立派、こちらの家も立派と、もう家と家が見合わせた結婚したんですけれどもね、その人は兎に角ご主人が早死にでした。
だから もう長い間 現在未亡人暮しをしておられるわけですけれどもね、もう家と家を見合わせたりね、と 云う様な本当にまあ、おろかな事だと思うんですけれどもねえ、
教祖様は結局 まあ 心と心を見合わせろ と仰せられるのだけども、なら心が今申します様に露出しておるわけぢゃないですからね仲仲、勿論 お道の信心を段々頂いて参りますと 日柄もなからなければ方位もない、ね、結婚、と云う事でも今も申します様に
非常にまあ、云なら 家柄とか 一筋とかと云ったような事を云わずに 心と心を見合わせる、という生き方をとるわけですけれども肝心要の心と心を見合わす、と 云う事が真の心を、とあります。真の心とは 信心の信 という事が書いてありますね、
結局お互いが 信じ合えれる、いうならば家庭と申しましょうか、これとても仲々わからんのですね、
結婚当初は大変良かったのだけれども 段々悪くなっていく所ろもあるし、ね、悪い事あったけれども仲々 まあ具合よう行っておる所もあります。私は今朝方、今朝方ぢゃあない、もう昨日寝ませて頂いたら もうずう~っと今朝起きる方まで ま、お芝居で云うならば あのう三段もの とか五段ものとか 十二段ものとかありましょうが、その段物を見るように、分けてですね、頂いて私はそれがもう素晴らしかったから、今朝思い出そうと思うけども、どうしても思い出せん、それは どういう事かと云うとね、
成り行きを尊ぶとか大事にする という事は、此の様にも素晴らしい事だと云う過程を、ずう~っとその まあ、お芝居で云なら五段か六段もの とかいう様に頂いたんです。
もうそれは実に素晴らしい事でした。ところが今朝目が覚めて素晴らしいお知らせを頂いたけれども、ころっと忘れてしまってるんです。ね、どういうわけ この折角頂いた、今日の朝にでも聞いて頂きたい と 云う様なその事でしたけれども わすれたか、と いうと あのう神様に其の事をお伺いさして頂きました。
此処では本当にあの、成り行きを大切にする、尊ぶ、その内容が黙って治める、と いったような色々な信心が此処には御座います。兎に角私が いろんな お取次させて貰う時 兎に角、成り行きをね、見ながら成り行きを大切にしながら、おかげを待ちなさいよ
おかげを頂なさいよ、と云う風に申します。
だから もう合楽の信心の芯は この成り行きを大事にすると云う事、尊ぶと云う事、しかもそれには間違いのない説明が加えてあるのは、成り行きそのものが神様の働きなんだ と、此処では教えるわけ、ね、成り行きそのままが神様があなたに求め給うところの、それが苦しい事であるならば、それを修業と頂くんだ、と いうことです。ね、例えば怖い様な どうなるだろうか、と 心がおののく様な事に出会ってもです、それはもう絶対神愛なんだ、と、ね、此頃 熊本の松村さんが、あの、私の一番怖いその、食用蛙のような蛙をね、もう その料理しようという、所がその食用蛙がね、
ものを云うたと云う、ね、助けてくれと と云うてまあ、いろいろそのお夢の中にはありましたがね、だから私共が怖い、と思うておる、なら向うの方もやはり怖い、と思うておるわけ。
殺される、なら殺す、と云う事はどういう事かと云と、その、嫌な問題 苦しい問題 困った問題、それとね、抹殺しようとする、
それを亡くしようとする事は、それを殺す事になるのです。ね、
嫌な難儀な問題とか 体の上の病気なら病気、これは、いや これが私の命取りになるのぢゃないだろうか。と思うたら怖いですね
やっぱり、ね、ところが、その病気そのものはです、もうこの病気と云うよりも 難儀と云うものをです、これを抹殺してもろうたり殺されたらもう難儀の立場がない、皆さん、どうでしょうか。
難儀から早う解脱したい、早う難儀からよくなりたいね、それをそう云うふうな頂き方は相手を、いうなら難儀を殺してしまう事になる、だから信心とは、その難儀を生かす事だと、なら難儀を生かす事は、どう云う事かというとね、云うならば難儀に様をつける事、難儀様のおかげでこういう素晴らしい事が分かりました。ね、
難儀様のおかげで私のように辛抱のない男でも辛抱力が出来ましたもう お礼を申し上げる事は沢山あると思う。
云うなら貧乏様のおかげで信心が出来ます。これは貧乏を生かしたわけです。ね、だからそこにいつまでも貧乏がある筈はない。
病気なんかでもそうです、ね、そのおかげでこんな有り難い
神様を頂いたんだ、と、難儀を殺しちゃならん。
それこそ、蛙がね、助けてくれ、その代わりにね、山椒魚を差し上げます、と、いうたげな 人間の言葉を使うた、ね、
山椒魚と云えば 天然記念物と云われるような、云うなら宝の様なもの、いうなら私共が宝と思うのは、ね、やはり お徳を受ける。と 云う事だろうと思うでのす、もう この難儀さえなかったら、もう なんていうのは難儀を今にも絞め殺そうとしておるのと同じことですよ、いっちょ ここんとこだけ よく分って頂きたいと思うです。いや苦しい事は苦しいもんだけぢゃいかんです。
苦しいです、けれども おかげで信心が出けます、
と 云うようにね、お礼の言葉がそれに続かなければ駄目です。
そこにね、難儀が生き生きとして生きてくるのです。
難儀を生かす事になるのです、その代わりに山椒魚が貰われるのです。ね、だから成り行きを尊ぶとか 大事にする とか、という事は そういう難儀そのものも尊ぶ、という事であり有り難いと思う事何ですよ、ね、そこを分からしてもらう事が私はこれは悟りだと思うです、ね、話を聞いて ああそうかなあ、そうかも知れんなあという程度に分かった所からそれを分から、実験してみるのです。此処の合楽の久保山さんという方が熱心にお参りがあります。
もう此の方は毎日今日もどうぞ成り行きを大切にさせて下さい、ともう本気で 其の事だけに取り組んでおられるとぢゃろうか、と思われるくらいに取り組んでおられます。
まあだ信心は若いです。まだ此処へ来てから御信心になった位ですから、もう、だから事ごとに綿密に 成り行きそのものを大事にしておられるが、此頃、十三日会の時に発表しとられましたが、
本当に一月間 成り行きの中には ま、いろんな事もありました。大変困ることも御座いました。
しるしい思いをする事も御座いましたけれども、一月間経ってみると、こういうおかげになっておる、という意味の発表なさいましたでしょうが、いろいろあったんです。ね、けれどもね、
その、成り行きを大切にする、という事がこのように素晴らしい事だ、と 云う事をです、ほな、私が今朝お夢に頂いて、その、
それこそ段々区切りをつけてずっと、その成り行きが本当のおかげを頂いていく その過程を頂いたんですけども、その中には、
今云うように、苦しい事もりゃ 嫌な事もありゃ、痛い思いをするはずかしい思いをする事も、ありますけれども、ね、
その事、事態を有難う、それを云ならば、私は今日は、私自身に、神様が ね、成り行きをお前が尊ぶ とか大切にすると云う事は
こんなに素晴らしい事だ と 云う事をまた一段と改めて頂いたような気が致します。
神様はそれを私に下さろうとする為にです、今日はあのお知らせ頂いたんだと思うです。だから私が今まで思うとったよりも、より
成り行きという事が こんなに素晴らしいんだ、と わかるのですから、私が成り行きばい、そいば大事にせやんいかんばい、という言葉は同じでも内容が変わってくるわけです。
それがおかげになってくるんです。今日私は あの、お前自信の力を頂く、という合楽教会の、「教会の力を願え」 と
神様はおっしゃった、教会の力、ね、だからその教会が、の力を頂く、という事の為に、私より皆さんがです、なら この成り行きを尊ぶとか 大切にする という事がこういう素晴らしい おかげにつながるんだ。もうこれは神様を尊ぶ、大切にする、という事と同じなんだ、として頂かれる思いを、もう一段高める。
なら久保山さんの場合なんかでも、今日の御理解頂いて、もっと素晴らしい成り行きという事は、こんなに素晴らしいもんだ、
有難いもんだと実感され、分かられたらそのおかげの、世界が広がってくる と、こう思うんです。もっと、ね、
だから もっと もっと確信をもたしてもらう、と、そういう今日は私はね、も、この縁談の事ですけれども、その、ね、
家を見合わせるとか、ね、家柄人筋という事なんかでなくて、真の心を見合わせよ、という事の いうけれども 心が露出しておるわれぢゃないからわかりませんけれども、だから成り行きを尊び大切にしていって、やろう、もらおう、と、いうような事になってもですよ、ね、なっておっても 成り行きがこわさなければならない、離さなければならない様になったら、それを御神、御神願として頂かしてもらう、そういう手立てというものを体得したら間違いないですね。働の中には 様々な働き、もう見た眼には本人達も気に入っとる、家も向うは立派、こちらも釣り合うとる、例えばですよ、それでも、なら 済み酒入れとったっちゃ またくずれる、と
いう事があるでしょうが、そういう時、残念無念といわずに、ね、はあ おかげ頂いてよかった、と いう頂き方をする事なんです。そこに成り行きを尊ぶ、とか 大切にする、という事がね、
いよいよもって、ね、際立って素晴らしい事になり、
今日の御理解で いうならば、そういう素晴らしい内容をもって
見合いはして行く、と 云う事、いうならば
天地の心を悟らしてもろうて 次の行動に移る、という生き方を身につけていく、ためには いよいよもってです、いうならば、
合楽理念の芯と思われる成り行きを いよいよ大切に尊ばしてもらう、それを今日私はまた一段と はあ成り行きを尊ぶという事は
こんなにも素晴らしい事にもなるんだなあ ね、その中身にはです悲しい事があったり 怖い思いをする事があるけれども、その悲しい思いも怖い思いも、合唱して受け抜かせて頂いた あかつきにはそれこそハッピ-エンドに終わるしめくくりに、ちゃんと なっておるのです、成り行きを大切にする、と 云う事は、ね、
そういう意味で 今日は一つ 真の心を見合わす と云う所を、
聞いて頂きました。
「どうぞ」